愛しの甥の小学生最後の運動会が今日行われた☆
家族もろとも大号泣な昼下がり☆
沢山の子供達がそれはもう縦横無尽に走り回り、笑い転げ、喜び、そして涙に暮れていた☆
家族で校庭の一角に陣地をとり、愛しの甥っ子の活躍を涙とともに見守っていたわけだが、場所は砂で敷き詰められた校庭。子供達が走り回れば走り回るほど砂塵は見守る家族の元へと舞い上がる。
甥っ子の出番がまだ先で一休憩と陣地にて小学生達の純粋無垢な活躍をぼぅっと眺めている自分の前を推定五歳前後の幼児達が砂塵がより高く、そしてより大胆に、より華麗に舞い上がるようにと、つま先から踵まで足のありとあらゆる箇所を用いて走り回っていた。
その砂塵は彼等に、そして勿論自分の躰にも舞い降りた☆
曇り気一つない笑顔で暴れ回るもんだから、思わず今家族の前で輝かしい勇姿を見せようと頑張る小学生達そっちのけで砂塵の魔術師達、いやもう暴君と呼んでしまっても構わない幼児達の一挙手一投足をガン見してしまった。
大人になると、人目を気にしてお洒落という自己表現に誰しもが走り出す。
そしてそれは人の前に立つ時は完璧な姿を要していないと成立しないものだから、少しの乱れも許さないよう細心の注意を払い、汚れるという事に対してより過敏になる。
たとえば、お洒落して入った酒場で隣の人間がはずみで自分に酒をかけてしまったとする。
そうすると大抵の人間は怒る。相手の人間に向かって。それこそ大人げなく。
それが社会のルールであるといわんばかりに。
しかし、目の前で戯れる推定五歳の暴君達は自分がいかに汚れるかを競うようにはしゃぎ回っている。
それを見て憤慨する人間は一人もいないだろう。
寧ろ、そんな彼等を見て自分もこんな無邪気な頃があったなと感慨に耽りはしないだろうか☆
考えてみれば幼い頃は世の中について知らないことばかりだ☆
汚れてみないと、何が綺麗で何が汚いか判別できない。
それならばと実験をその場で試みるも、ただ深刻に考え実験するのではつまらない。
どうせなら楽しくなくては意味がないと、自分が最大限楽しめるように実験を試みる。
そして当たり前のように沢山汚れて汚れたその後に、それは手を洗ったときに、若しくはシャワーを浴びるそのときに、自分の躰から流れてくる砂塵の残骸を見て、そうかこれは汚れていたのだと認識できるのだ☆
こうして人間は一つ大人の階段を昇っていく☆
汚れる事に憤り怒るのは大人だけだ。
しかし、そんな大人も純粋というモノを目にすると決まって「俺も大分汚れたよ」なんて事を吐く。
汚れることに憤りながら、さも自らが汚れの権化であると認める言葉を吐くのだ。
純粋への憧景か、汚れへの愛敬か、
そもそも光のないところに影ができないように、綺麗というものがないところに汚れは存在しない。
光を認識しなければ暗い闇に触れる事が適わない。
天国という虚構を掴むには、まず地獄という虚像を受け入れなければいけない。
そういうことではないか。
人間は綺麗という虚像を掴むために目一杯自らを汚れという現実に貶めているのだ☆
好んで、自ら。
人間は汚れたいのである☆
先にある綺麗に包まれるために☆
かの戦後の文豪坂本安吾が堕落論で放った「堕落せよ!生きよ!」にも似た哲学を推定五歳の子供の暴君達から学ぶことになるとはと、敬愛の眼差しで彼等を見ていたら、散々、砂を掛け合っていた暴君達の一人がふと泣き出して叫んだ☆
『汚れた~~~!買って貰ったばかりなのに~~~~!!!』
・・・・・・あれ?
・・・・・・うん、うん、・・・・・・・それもまた人生☆
家族もろとも大号泣な昼下がり☆
沢山の子供達がそれはもう縦横無尽に走り回り、笑い転げ、喜び、そして涙に暮れていた☆
家族で校庭の一角に陣地をとり、愛しの甥っ子の活躍を涙とともに見守っていたわけだが、場所は砂で敷き詰められた校庭。子供達が走り回れば走り回るほど砂塵は見守る家族の元へと舞い上がる。
甥っ子の出番がまだ先で一休憩と陣地にて小学生達の純粋無垢な活躍をぼぅっと眺めている自分の前を推定五歳前後の幼児達が砂塵がより高く、そしてより大胆に、より華麗に舞い上がるようにと、つま先から踵まで足のありとあらゆる箇所を用いて走り回っていた。
その砂塵は彼等に、そして勿論自分の躰にも舞い降りた☆
曇り気一つない笑顔で暴れ回るもんだから、思わず今家族の前で輝かしい勇姿を見せようと頑張る小学生達そっちのけで砂塵の魔術師達、いやもう暴君と呼んでしまっても構わない幼児達の一挙手一投足をガン見してしまった。
大人になると、人目を気にしてお洒落という自己表現に誰しもが走り出す。
そしてそれは人の前に立つ時は完璧な姿を要していないと成立しないものだから、少しの乱れも許さないよう細心の注意を払い、汚れるという事に対してより過敏になる。
たとえば、お洒落して入った酒場で隣の人間がはずみで自分に酒をかけてしまったとする。
そうすると大抵の人間は怒る。相手の人間に向かって。それこそ大人げなく。
それが社会のルールであるといわんばかりに。
しかし、目の前で戯れる推定五歳の暴君達は自分がいかに汚れるかを競うようにはしゃぎ回っている。
それを見て憤慨する人間は一人もいないだろう。
寧ろ、そんな彼等を見て自分もこんな無邪気な頃があったなと感慨に耽りはしないだろうか☆
考えてみれば幼い頃は世の中について知らないことばかりだ☆
汚れてみないと、何が綺麗で何が汚いか判別できない。
それならばと実験をその場で試みるも、ただ深刻に考え実験するのではつまらない。
どうせなら楽しくなくては意味がないと、自分が最大限楽しめるように実験を試みる。
そして当たり前のように沢山汚れて汚れたその後に、それは手を洗ったときに、若しくはシャワーを浴びるそのときに、自分の躰から流れてくる砂塵の残骸を見て、そうかこれは汚れていたのだと認識できるのだ☆
こうして人間は一つ大人の階段を昇っていく☆
汚れる事に憤り怒るのは大人だけだ。
しかし、そんな大人も純粋というモノを目にすると決まって「俺も大分汚れたよ」なんて事を吐く。
汚れることに憤りながら、さも自らが汚れの権化であると認める言葉を吐くのだ。
純粋への憧景か、汚れへの愛敬か、
そもそも光のないところに影ができないように、綺麗というものがないところに汚れは存在しない。
光を認識しなければ暗い闇に触れる事が適わない。
天国という虚構を掴むには、まず地獄という虚像を受け入れなければいけない。
そういうことではないか。
人間は綺麗という虚像を掴むために目一杯自らを汚れという現実に貶めているのだ☆
好んで、自ら。
人間は汚れたいのである☆
先にある綺麗に包まれるために☆
かの戦後の文豪坂本安吾が堕落論で放った「堕落せよ!生きよ!」にも似た哲学を推定五歳の子供の暴君達から学ぶことになるとはと、敬愛の眼差しで彼等を見ていたら、散々、砂を掛け合っていた暴君達の一人がふと泣き出して叫んだ☆
『汚れた~~~!買って貰ったばかりなのに~~~~!!!』
・・・・・・あれ?
・・・・・・うん、うん、・・・・・・・それもまた人生☆





